合議制がとられていたようです。
ちなみに「忍者」は比較的最近にできた言葉で、明治以前にはありませんでした。
大正時代は「忍術使い」と言われており、「忍者」と言う言葉が一般化したのは戦後のようです。
忍者集団は多くありましたが、有名なのは甲賀と伊賀です。
甲賀が主に特定の主のもとで活動していたのに対し、伊賀はその都度金銭で請け負う傭兵集団だったと言われています。時には戦で敵対する双方に忍者を派遣したこともあるようです。
性格が全く違う集団ですが、実は地域的には隣同士です。
そのため、一人の頭領が両組織を統括していたという話さえ有ります。(百地三太夫だったかな?)
聖徳太子が使っていた志能備(忍び)大伴細人は甲賀流忍者と言われていますが、本当なのか後で作られた話なのかは分かりません。
と言ったところで、雑学はこれぐらいにして今日は甲賀流忍術屋敷を紹介します。
甲賀53家の内の望月家の旧宅と言われています。
1階にはいろんな忍者用具や書物などが展示されていました。
忍者刀と言われる刀は、反りのない真っ直ぐなものが多いです。
戦場と違い、室内はお寺やお城・御殿を除けば一般的に天井が低く振りかぶると刀が天井につかえて胴ががら空きになってしまい、そこを攻撃されると防ぎようが無いので、突きが主な戦法で反りが必要なかったというようなことをどこかで読んだことがあります。
押入れの戸を開けると中には不格好な忍者の人形が有って驚かされます。
その忍者の前の板をめくりあげると、隣家につながる抜け穴があります。
(昔は繋がっていたそうですが、今はすぐ行き止まりです。)
中二階の部屋です。
写真では明るく映っていますが結構暗く、下の部屋からは中に人がいるのかどうかは確認できません。
中二階に上がる階段だと思う。
でも僕の記憶では縄梯子で上がったような気が。
もう一つ上の部屋に上がるのが縄梯子だったかな?
ちょっと記憶があいまい。
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